龍馬はなぜ大崎下島で、徳川幕府を倒す4藩軍事同盟を推し進めたのか

『島へ』52号に掲載した「坂本龍馬と瀬戸内海」について、読者からの反響があった。いくつか紹介したい。と同時に、穂高の見解で補足してみます。

「これまで、薩長で徳川幕府を倒したと、教わってきました。2藩で倒されるほど、江戸支配の800万石の徳川は脆弱だったのか。東京人としては長い間、悶々としていました。今回の記事で、龍馬が広島を巻き込み、4藩で徳川を倒したといわれると、すっきりした」(植木さん・目黒区)

芸州(広島)藩は、西日本一の雄である。豊富な軍資金と兵器と物量をもつ。徳川幕府についたままならば、薩長土にとっては大きな障壁となる。巻き込めば、徳川を倒せる可能性がある。重要なキャスチングポートだった。

「私は会津出身です。薩長土の3藩はよく思っていません。龍馬が西日本の大きな芸州藩を巻き込んだから、徳川が倒せた。それについては納得できました。会津は犠牲になりましたけど」(鈴木さん・江戸川区)

龍馬はあえて広島藩・大崎下島の新谷道太郎宅(寺の住職宅)に3藩の主力メンバーを集めたうえで、同藩との軍事同盟を結んでいた。(道太郎述書より)
芸州藩はその直後、御手洗港から倒幕の軍兵を送り出している、という明確な出兵事実がある。

「親父が九州の海運業だったから、瀬戸内航路の特徴は良くわかります。薩摩藩(九州の最南端)、長州(本州の外れの日本海側)、土佐藩(四国の外れ)で地の利が悪い。京の都や江戸から最も遠い藩。薩長土で戦うとなれば、瀬戸内海を通って大阪湾から京都に上がる必要がある。もし、芸州藩(広島)が戦略的に瀬戸内を封鎖したら、3藩は身動きがとれなかったはずです」(東さん・福岡)

御手洗の周辺は潮流が早くて、汽帆船でも港に入って潮待ちしないと航行できない。芸州藩が薩長土の船を港に入れてくれなければ、兵力は送れなかったはずだ。

「広島はもともと毛利家だし、関が原を戦った、精神的にはアンチ徳川でしょう。だから、龍馬が4藩軍事同盟として巻き込んだ。龍馬の作戦はさすがだと思う」(角田さん、葛飾)

そのほかにも、「倒幕は薩長土肥と教わった。龍馬が暗殺されたから、広島藩の名が出てこないのかな?」という素朴な質問が寄せられている。

芸州(広島)藩は膨大な軍資金と兵器と物資(人、金、物)出して、倒幕に寄与した。なぜ幕末・倒幕史から芸州藩が抜け落ちているのか、それが不思議だ、という声が思いのほか多い。

結論からいえば、幕末の芸州(広島)藩には英雄がいなかったからだ。(かつての毛利元就のような大物)。土佐には龍馬、後藤、長州は桂小五郎、薩摩は西郷や大久保などがいた。
芸州藩の志士たちは明治政府の要職に座れなかった。上手なのは、むしろ肥前藩だ。そこには江藤新平・大隈重信・副島種臣などがいた。明治政府が作った教科書からは、薩長土肥という表現が主流になった、と見なすことができる。

龍馬はなぜ大崎下島で、徳川幕府を倒す4藩軍事同盟を推し進めたのか より 更新日:2010年02月05日

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