坂本龍馬を美化しない、だからこそ龍馬のすごさがわかる=「島へ」53号

雑誌「島へ」53号が4月1日に発売された。「坂本龍馬と瀬戸内海」シリーズの2回目となる。今回はいろは丸事件だ。
龍馬の率いる海援隊の蒸気船・いろは丸(商船)が、紀州藩の軍艦と衝突し、沈没した事件だ。

海援隊は全国から脱藩浪士ばかり集めた、貿易・政治結社だった。相手は水戸黄門で同じみ、葵のご紋の紀州藩だ。そこから約8万3000両を賠償金として取った。
衝突回避は国際法で、双方の右旋回を義務づけけられている。このルールを守れば、たがいにすれ違える。しかし、いろは丸は逆に左旋回した。そのために衝突、沈没した。

多くの学者や研究者たちは、「当夜は霧が深く、突然、紀州藩の船が現れた。すでに目と鼻の先といった緊急事態だった。いろは丸は臨機応変に左に舵(かじ)を切った。だから、決して悪くない」という、こんな作り話が主流だった。
英雄・龍馬が悪い、と書けない雰囲気が脈々と続いてきたのだ。

事件後、鞆の浦(広島・福山市)と長崎で折衝がおこなわれた。双方は航海日誌を出し合って、是々非々を激論している。双方の航海日誌、談判のなかでも、一言も濃霧など出てこない。濃霧とは、明治以降の作り話だろう。
いろは丸側の航海日誌によれば、衝突後、龍馬たちが紀州藩の船に乗り移り、曳航してくれ、と話しはじめた。「この時、まさに山の頂から月が昇った」と、明記しているのだ。すると、衝突から30分~20分以内だろう。
衝突地点から、佐柳島や粟島まで10キロ前後の距離がある。うすい夜霧でもあれば、昇る月など見えるはずがない。
いろは丸がわはむしろ月明かりがあったから、衝突時に、紀州藩の甲板に当直士官が居ないと見渡せた。それを強調しているのだ。

私は、龍馬側を美化せず、いろは丸の操船に非があっただろう、と見なす。それでいて、龍馬は御三家の紀州藩から8万3000両を取った。その凄腕、才知は桁外れのものがある。交渉術の巧みさ焦点を当てた記事である。
いろは事件の解決を境に、坂本龍馬の名が全国に知れ渡った。

雑誌「島へ」53号

坂本龍馬を美化しない、だからこそ龍馬のすごさがわかる=「島へ」53号 より 更新日:2010年04月01日

http://www.hodaka-kenich.com/Journalist/2010/04/01003951.php

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「倒幕同盟に芸州」「龍馬の功績に新説」の見出し=東京新聞(2010年)

雑誌「旅へ」52号(2月1日)で、私は「坂本龍馬と瀬戸内海」のシリーズもので、「四藩連合の軍事同盟は大崎下島で結ばれた」という記事を書いた。東京新聞特別報道部の記者・秦淳哉さんから、「たいへん興味を覚えました、わが社でも、ぜひ取り上げたい」と連絡があり、快く取材に協力した。

「薩長同盟だけでは江戸800万石の徳川幕府を倒せるはずがない。それに土州(土佐藩)が加わったにしても、ムリである。西日本最大の雄藩である芸州藩(広島)が加わったから、徳川を倒せた」
私は秦記者にたいして、そのような考えを述べた。
「毛利元就が関が原の戦いで、徳川に敗れた、という積年の恨みが芸州にある。だから、精神的にもすんなり加われたと思う。龍馬には、その辺りの読みがあって芸州に接近したのではないか」と、作家としての想像も語った。

東京新聞3月21日(日)の朝刊「こちらは特報部」のコーナーにおいて「倒幕同盟に芸州」というタイトルで、見開き2ページで、大きく取り上げられた。

この四藩軍事同盟の発掘は、1936年発行「維新志士 新谷翁の話」という文献の発見によるものだ。その書物によると、慶応3年11月3日から3日間の御手洗の密議がおこなわれた。大久保利通、桂小五郎、山形有朋、後藤象二郎、池田徳太郎など十数名という、そうそうたるメンバーだ。
この密議で、四藩が急いで京都に兵糧を送る、と軍事同盟が成立した。(約2ヵ月後には鳥羽伏見の戦いで、徳川軍を破った)

もし徳川に敗れたとき、この志を誰が後世に伝えるか、という話題が出てきた。皆の年齢を確認した龍馬が、最も若い新谷道太郎を指名した。
「(伝承)責任は君にあるぞ。ただ急いで口外するな。口外したなら、君はすぐ殺されるぞ。どのようなことがあろうとも60年は黙っておれ。60年経てば、皆死んでしまう。その後で言え。いかに佐幕の者でも、その子孫が怒りを継いで、君を殺しには出てくまい」
龍馬は助言している。
新谷道太郎は60年余、沈黙を守った。そして、昭和に入って、この事実を語ったのだ。
龍馬は四藩軍事同盟が成立させた、翌7日に御手洗を出発した。8日後の同月15日に、京都の近江屋で暗殺されたのだ。あまりにも悲痛な話だ。

龍馬が芸州藩を巻き込んだからこそ、徳川幕府が倒せた。四藩軍事同盟こそが龍馬の最大の功績だった思う。この事実をもっと世に知ってもらいたいと思う。

東京新聞の記事の一節、「歴史を覆す新事実となるか」という秦記者の文章からも、8日後の死という悲劇の龍馬にたいする熱い想いが感じられた。

東京新聞 2010年10月31日朝刊

「倒幕同盟に芸州」「竜馬の功績に新説」の見出し=東京新聞 より 更新日:2010年03月24日

http://www.hodaka-kenich.com/Journalist/2010/03/24005139.php

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龍馬はなぜ大崎下島で、徳川幕府を倒す4藩軍事同盟を推し進めたのか

『島へ』52号に掲載した「坂本龍馬と瀬戸内海」について、読者からの反響があった。いくつか紹介したい。と同時に、穂高の見解で補足してみます。

「これまで、薩長で徳川幕府を倒したと、教わってきました。2藩で倒されるほど、江戸支配の800万石の徳川は脆弱だったのか。東京人としては長い間、悶々としていました。今回の記事で、龍馬が広島を巻き込み、4藩で徳川を倒したといわれると、すっきりした」(植木さん・目黒区)

芸州(広島)藩は、西日本一の雄である。豊富な軍資金と兵器と物量をもつ。徳川幕府についたままならば、薩長土にとっては大きな障壁となる。巻き込めば、徳川を倒せる可能性がある。重要なキャスチングポートだった。

「私は会津出身です。薩長土の3藩はよく思っていません。龍馬が西日本の大きな芸州藩を巻き込んだから、徳川が倒せた。それについては納得できました。会津は犠牲になりましたけど」(鈴木さん・江戸川区)

龍馬はあえて広島藩・大崎下島の新谷道太郎宅(寺の住職宅)に3藩の主力メンバーを集めたうえで、同藩との軍事同盟を結んでいた。(道太郎述書より)
芸州藩はその直後、御手洗港から倒幕の軍兵を送り出している、という明確な出兵事実がある。

「親父が九州の海運業だったから、瀬戸内航路の特徴は良くわかります。薩摩藩(九州の最南端)、長州(本州の外れの日本海側)、土佐藩(四国の外れ)で地の利が悪い。京の都や江戸から最も遠い藩。薩長土で戦うとなれば、瀬戸内海を通って大阪湾から京都に上がる必要がある。もし、芸州藩(広島)が戦略的に瀬戸内を封鎖したら、3藩は身動きがとれなかったはずです」(東さん・福岡)

御手洗の周辺は潮流が早くて、汽帆船でも港に入って潮待ちしないと航行できない。芸州藩が薩長土の船を港に入れてくれなければ、兵力は送れなかったはずだ。

「広島はもともと毛利家だし、関が原を戦った、精神的にはアンチ徳川でしょう。だから、龍馬が4藩軍事同盟として巻き込んだ。龍馬の作戦はさすがだと思う」(角田さん、葛飾)

そのほかにも、「倒幕は薩長土肥と教わった。龍馬が暗殺されたから、広島藩の名が出てこないのかな?」という素朴な質問が寄せられている。

芸州(広島)藩は膨大な軍資金と兵器と物資(人、金、物)出して、倒幕に寄与した。なぜ幕末・倒幕史から芸州藩が抜け落ちているのか、それが不思議だ、という声が思いのほか多い。

結論からいえば、幕末の芸州(広島)藩には英雄がいなかったからだ。(かつての毛利元就のような大物)。土佐には龍馬、後藤、長州は桂小五郎、薩摩は西郷や大久保などがいた。
芸州藩の志士たちは明治政府の要職に座れなかった。上手なのは、むしろ肥前藩だ。そこには江藤新平・大隈重信・副島種臣などがいた。明治政府が作った教科書からは、薩長土肥という表現が主流になった、と見なすことができる。

龍馬はなぜ大崎下島で、徳川幕府を倒す4藩軍事同盟を推し進めたのか より 更新日:2010年02月05日

http://www.hodaka-kenich.com/Journalist/2010/02/05182157.php

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龍馬の謎が解明!暗殺される9日前に、4藩軍事同盟が結ばれた

隔月誌『島へ』52号が2月1日に全国の書店で発売さる。私は「坂本龍馬と瀬戸内海」シリーズ・3回連載を約束し、第1回目として『4藩連合の軍事同盟は大崎下島で結ばれた』というタイトルで、龍馬の遺業を取りあげた。
幕末史に新たな1ページとなる、斬新な取材記事が掲載できた。
「坂本龍馬に、こんな事実があったのか。京都で暗殺される9日前、龍馬は極秘に大偉業を成立させていたとは……」
だれもが驚愕(きょうがく)するだろう。と同時に、これまで以上に、龍馬の大きさを知るはずだ。
幕末研究の歴史家、維新志士を描く作家たちは、新たな事実として、対応する必要があるだろう。

慶応3年11月6日、龍馬の主導の下に、4藩の志士が「巨大な徳川を倒す」という君命で密議を行った。場所は瀬戸内の大崎下島・御手洗港から約1.5キロ奥まった寺で、住職の宅だった。幕末志士の新谷道太郎(にいや みちたろう)の生家である。そこに集まった十数人の志士たちが、3日間の密議を行い、極秘の4藩軍事同盟を結んだのだ。

4藩軍事同盟の参加者たちを列記しておこう。
芸州藩 池田徳太郎、加藤嘉一、高橋大義、船越洋之助、星野文平
薩州藩 大久保一蔵(利通)、大山格之助、山田市之丞
長州藩 桂準一郎、大村益次郎、山縣狂介(有朋)
土州藩 坂本龍馬、後藤象二郎

これから徳川と戦う。志士たちには、確固たる勝算が見えない。全員が決死の覚悟だった。
「明日にも知れず散る生命。死ねば暗に葬られる。どうして後世に伝えようか」
大村益次郎の発言に対して、
「皆が死んでしもうたら、誰が伝えるんか。ここは一番年若い者、だれか一人が生き残り、われら忠義の志を後世に伝えねばならぬ」
龍馬が指名したのが、最も若い道太郎だった。
「急いで口外するな。口外したなら、君はすぐ殺されるぞ。どのようなことがあろうとも、60年は黙っておれ」
「なぜ60年間も待たねばならぬか」
道太郎が龍馬に問うた。
「これから60年すれば、皆死んでしまう。その後で言え。いかに佐幕の者でも、その子孫が怒りを継いで、君を殺しには出てくまい」
そう指図した龍馬は翌日、御手洗港を発った。京都に上り、真っ先に殺されたのだ。

兵法では「事は密をもって成り(計画は秘密に運ぶからこそ成功する)」という教えがある。手紙は幕府側に奪われると、重要な密議の場所・御手洗が発覚してしまう。龍馬はどの手紙にも「御手洗」について一言もふれていない。当然だろう。それゆえに物証が残っていない。上陸事実としては、河田佐久馬(鳥取藩士)が御手洗で龍馬と出くわした、と書き残す。(現存)

龍馬の暗殺で、参加者全員が明治維新になっても口を閉ざした。道太郎は島根県の僻地の寺に隠れた。こうして4藩軍事同盟の存在すら闇の中に消えたのだ。

大正、昭和と時代は変わっていく。

明治維新から60年余年経ったところで、道太郎がこれら4藩の志士たちの偉業を世に伝えはじめた。皇族の前で語ったり、各地を講演して回ったりした。

昭和11年には述著として単行本で遺した。当時は新聞などにも取り上げられていた。
翌年、わが国は盧溝橋事件で日中戦争に突入した。世間やマスコミ(新聞・ラジオ)の話題は明治維新よりも、戦争へと傾斜していった。道太郎の存在は薄らぎ、幕末の4藩軍事同盟すらも、ふたたび歴史から消えてしまった。

昨年末(2010年当時)、私は新谷道太郎の述著があると知った。しかし、国立国会図書館で検索しても出てこなかった。紆余曲折した結果、道太郎の本にたどり着けた。
それを手にした私は、全身が震えた。幕末史では語られていない途轍(とてつ)もない事実、顕在化していない出来事が数多くあったからだ。その一つが4藩軍事同盟だった。

この取材で、新谷家の関係者から資料や情報提供がいくつも得られた。住職の宅は幕末のまま現存し、移設も、大きな改築もない、と教えられた。
龍馬たち十数人の志士が集まり密議したままなのだ。室内の写真撮影も許可してもらえた。それら室内写真は同誌に掲載している。
「この部屋に龍馬も、桂小五郎も、大久保利通も……きた」
 日本を変えた幕末志士のなかに、わが身を置いたような格別の感慨を覚えた。

隔月誌『島へ』52号

龍馬の謎が解明! 暗殺される9日前に、4藩軍事同盟が結ばれた より 更新日:2010年02月01日 

http://www.hodaka-kenich.com/Journalist/2010/02/01160934.php

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